映画は文学をあきらめない ひとつの物語からもうひとつの物語へ epubダウンロード無料

映画は文学をあきらめない ひとつの物語からもうひとつの物語へ

によって 宮脇 俊文


3.5 5つ星のうち(1人の読者)

映画は文学をあきらめない ひとつの物語からもうひとつの物語へ epubダウンロード無料 - 内容紹介 ハリウッドがもしサリンジャーの短編を芸術的なものに仕上げていたら事態は違っていただろう。ただ単に原作からインスピレーションを得ただけの、安易なシナリオによる小説の映画化は原作者へのある種の冒涜であることは否定できない。そこには原作の精神(スピリット)が残されていなければならない。(本書イントロダクションより) 翻案(アダプテーション)とは何か。 それはひとつの物語からもう一つの物語を作り出すこと。そうしてできあがったものは独立した作品である。それでは、小説を映画に翻案するというのはどういうことなのか……。 小説を映画化する際に、監督は原作者の意図をどのように読み解き、いかにそぎ落とし、また付け加えるのか。そして映画化の後、原作の読み解きかたはどう変わって行くのか。 原作とその翻案である映画の相関関係を考察することにより、作品世界の新たな魅力と見方が変わる一冊。 篠田正浩、山田太一の最新インタビュー掲載。 【目次】 1.イントロダクション 2.村上春樹『ノルウェイの森』―言葉の感性を映像化する手法 宮脇俊文 (トラン・アン・ユン監督「ノルウェイの森」) 3.カズオ・イシグロ『日の名残り』―諦めの文学をいかに表現したか 挾本佳代 (ジェームズ・アイヴォリー監督「日の名残り」) 4.映画の「動くイメージ」が小説家の意識を変えた―フィッツジェラルドとヘミングウェイの場合 宮脇俊文 (ヘンリー・キング監督「日はまた昇る」) 5.フィッツジェラルド『華麗なるギャッツビー』が描いたアメリカ社会―消されたジャズ・よみがえるジャズ 宮脇俊文 (バス・ラーマン監督「グレート・ギャツビー」) 6.近世小説を近代的価値観で描いた溝口健二映画―上田秋成『雨月物語』と井原西鶴『好色一代女』 田中優子 (溝口健二監督「雨月物語」「西鶴一代女」) 7.二つの『楢山節考』―木下惠介の「様式の美」、」今村昌平の「リアリティの醜」 挾本佳代 (木下惠介監督「楢山節考」、今村昌平監督「楢山節考」) 8.引き裂かれた身体―『色、戒』と『ラスト、コーション』 晏妮(アンニ) (アン・リー監督「ラスト、コーション」) 9.安部公房『燃えつきた地図』―都市の脆うさを、勅使河原宏はこう表現した デヴォン・ケイヒル(翻訳:金原瑞人、井上里) (勅使河原宏監督「燃えつきた地図」) 10.「生き方」を問いかけるドキュメンタリー映画もまた文学 池内 了 (大津幸四郎・代島治彦監督「三里塚に生きる」、佐藤真監督「阿賀に生きる」) 11.インタビュー:篠田正浩(映画監督) 12.インタビュー:山田太一(脚本家) ※目次は変更になる場合がございます。 著者について 宮脇俊文:1953 年神戸生まれ。上智大学大学院修士課程修了。成蹊大学教授(アメリカ文学)。2007 年秋、ミネソタ大学客員教授。著書に『村上春樹を読む。―全小説と作品キーワード』(イーストプレス)、『アメリカの消失―ハイウェイよ、再び』(水曜社)、『グレート・ギャツビーの世界―ダークブルーの夢』(青土社)、共編著書に『レイ、ぼくらと話そう―レイモンド・カーヴァー論集』(南雲堂)、『ニュー・ジャズ・スタディーズ―ジャズ研究の新たな領域へ』 ( アルテスパブリッシング) など。 挟本佳代:成蹊大学教授 田中優子:法政大学総長 晏妮(アンニ):日本映画大学特任教授 デヴォン・ケイヒル:ミネソタ大学大学院博士課程 池内了:総合研究大学院大学名誉教授 商品の説明をすべて表示する

映画は文学をあきらめない ひとつの物語からもうひとつの物語への詳細

本のタイトル : 映画は文学をあきらめない ひとつの物語からもうひとつの物語へ
作者 : 宮脇 俊文
ISBN-10 : 4880654027
発売日 : 2017/3/8
カテゴリ : 本
ファイルサイズ : 23.09 (現在のサーバー速度は21.09 Mbpsです
以下は 映画は文学をあきらめない ひとつの物語からもうひとつの物語へ の最も正直なレビューです。 この本を読んだり購入したりする場合は、これを検討してください。
丁寧に積み上げられた緻密な論集である。何度も読み返すことになりそうだ。 作品コンテンツが互いのアダプテーションを諦めない限り、表現法を交換し合いながらインターテクスト的解釈の広がりが行われていく。それはとても豊かなことであるのだと、改めて感じさせられる。フィッツジェラルド自身の映画に対する意見には、黎明期のハリウッドで自身もパッケージ化・商業化されていくことへの恐怖が表れている。ハリウッドの映像手法がフィッツジェラルド作品への動的な影響(速さ)を与えていた、との指摘も興味深い。言語(文学)を視覚化・聴覚化(映画)する過程で語り落とされる文脈は数知れないながら、そこにどんな解釈を足すか・表現を多様化していくかという行動にこそ、製作者のカラーが出るのだ。カノン作品だけでなく、新しい作品にも積極的に視座を与えているのが、この論の特筆すべき点である。ラーマン監督のギャツビーにもポジティブな分析が与えられている。ジャズ=新移民の台頭、ユダヤ系のウルフシェイムがインド系に変更されている、など、現代らしいポストコロニアリズム的読みも充実している。ギャツビーに内在するジャズの魅力は、決してオールド(ノスタルジー)なものではなく、時代を超えて通じる寓意であり、だからこそ今でもアメリカの高校生たちが読むよう推奨されているのだろう。 『楢山節考』の基となった逸話…「(閉鎖的な地方集落においては、口減らしのため)老人は叩き殺してしまう」「自分の息子が心置きなく母を殺せるよう、母みずから老婆としてふさわしい見た目になるために自分の歯を折る」といった描写の壮絶さには圧倒される。姥捨を行なった帰路、息子が降ってくる雪をみて「おっかあ、雪が降ってきたよ」と振り返る場面には、母息子関係の終焉を表す一抹の美しさもあり、やがてその「親棄て」の枠組みが(子が生まれることによって)やがて自分にめぐってくるというむなしさ、日本のムラ社会独特の倫理観・道徳観とつながる。見事である。「いまでは管理社会という言葉は死語のようになり、あまりに当然の現代社会を指し示す言葉となってしまった」という言葉は、形は違えど集団の中でスケープゴートになってきた人々の少なくない現代において、まさに再考する価値のある作品だと感じさせた。篠田正浩、山田太一のインタビューも素晴らしい。篠田監督の言葉、「ハリウッド映画は、もう日本人の心をつかみきれません。もっと自分たちの私小説的なテレビのほうが、密着度が、シンセリティーが格段に増えてきてしまっています。もうグローバリゼーションと言えるような、グローバルなものもなくなってきつつあって、自分の足元の周辺に、グローバル以上にいろいろな世界が見えてきました。体験もできます。疑似体験なら、もっといっぱいあります」には、創作における世界観を全体化しすぎること…個人的な事象を蔑ろにし、人種・国家単位の物事として捉えてしまうことの限界がみられる。グローバルという名の、単純な欧米への迎合への問題提起かもしれない。文学・文化・映画にまたがる、学際的かつ素晴らしい本であった。

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